VRは最前線ではないかもしれない

大分焼酎、二階堂のCM、2019年、本を読む人々篇において、「いつの間にか、つぶやきすら大声になってしまった。出口のない喧騒の中で、沈黙だけが、語りかける。」という一文がある。
私はこの一文が、CMを見る度にじわっと胸に響く。

人との話し方、コミュニケーションについて、日頃からふわふわ、ゆっくりマイペースに考えているんだけど、いまだに最適解は見つかっていないし、多分答えは無いのかもしれない。
何を目的としているのかも正直明確じゃないし、なんらかの結果を求めているわけではないのだけど、確かに考える必要はあるような気がしている。

例えば、相手との意見の相違を感じ取った時の行動について。

映画やドラマ、ゲームのワンシーンでよく見るものだけど、相手と意見が相違している時、または相違していると感じ取った時にとる行動として、相手の目を見たあと、その場から離れる、というのがよくあると思う。よほど気に食わないことだと、舌打ちをしたり悪態をつく場合もあるし、親しい間柄という設定であれば、何かを言いたいけれど言えずに、押し殺したような顔でさっと立ち去る、という場合もある。
「今はそれで納得してやる」として、いったん協力して何かに立ち向かったり、利害関係の一致によって、まずはその場をおさめる、ということも。
後にこれについて解決する描写があることもあれば、最後まで解決しなかったりもする。
これらは登場人物達の微妙な表情のニュアンスや、発した言葉の強弱、抑揚、そして体の動き、すべてが複雑にあわさって展開されるワンシーンとなって、物語の一部に組み込まれている。

私はこういうシーンを見た時に、すごく人間的だなって思ってて。
そして、これっていうのは現状のアバターを使ったVRや、文章主体のSNSではなかなか実現出来ないことだと思う。

よく、「文章じゃなくて、ちゃんと面と向かって話さないとダメだ」みたいな話があると思うんだけど、確かにそれはその通りで、それで解決したり、良い方向に向かったことは私にも何度かある。しかし、これが現状のVRにも100%当てはまるかといえば、それは違うと思う。
VRで会うことを、しばしば「直接会って」と表現してしまうのだけど、よく考えれば、全然直接会ってない。姿はアバターで、顔は何パターンかのアニメーションオーバーライドで、頭と手の動きがメインで、あとは音声。音声だって機械を通して変えている場合もあるだろう。

ネットでのコミュニケーション方法に、段階のようなものを設定してみると、以下のように、そのコミュニケーションの深さ具合で順に並べることが出来る。もちろん大雑把に、です。

1.文章主体のSNS(TwitterやFacebook)
2.音声通話(電話)
3.音声と文章を併用したチャットツール(Skype,Discode)
4.アバターを利用したVR(VRChat)
5.カメラで自分をリアルタイムで映して音声通話(Zoom)

私だけかもしれないけれど、VRに慣れ親しんでしまうと、VRが現状最強のネットコミュニケーションツールのように感じてしまうのだけど、考えてみると実はそんなことはなくて、自分の生身をカメラで映して音声通話するZoomなど、いわゆる今、世の中で広く使われている「リモート」が、もっとも私が感じた「人間的」に近いのではないか。
前述の映画やドラマでよく見かけるワンシーンも、いわゆるリモートでは限りなく近く再現できると思う。

ある程度のPCスペックと、PCの知識をもち、わりと高額なVR機器を買い揃え、自身のお気に入りのアバター、姿となって、VRの世界に足を踏み入れる。
この時点でもう、あたかも自分がネットコミュニケーションの最前線にいるような気持ちになってしまわないだろうか。
「リモートだの、Zoomだの」みたいに、まるでそれらがVRよりも劣化した何かのように考えてしまっているかもしれない。
申し訳ないことに、私にはそういう優劣の考えが、確かにあったと思う。100%否定出来ない。
ビジネス会議で、Zoomを利用しましょう、と提案されたら、断りはしないけれど、抵抗感がある。これが、そういう優劣の考えがまだ自分のどこかに残っている何よりの証拠だと思う。
自分の生身を晒すことへの恐怖とは違うと思う。私は引きこもりではないし、普通に毎日出勤して、たくさんの人に姿を晒していることに、抵抗も恐怖もないからだ。

より「人間的」と思えることが可能な手段を、いつのまにか下位の手段として考えていた自分がいることに気が付いた。VRで麻痺していた。私だけの現象だと信じたい。
けれど、実際はどうだろうか・・・。
「実際に会って話さないと」という考えをVRに持ってきている時点で、もしかしたらこの現象、あるいはそれに似たことが、既にその人の中に潜んでいるかもしれない。
VRの世界は、まぁ、ほぼ、無限大だと思う。しかし、現状のところは、生身の姿を画面に映すコミュニケーションに一歩及ばないのではないだろうか。

コロナによってリモートの必要性に気が付き、Zoomアプリをインストールした多くの国民のほうが、ネットコミュニケーションの最前線を行っている、と言ってもあながち間違いではない。
彼らは自身の生身の姿と肉声同士でコミュニケーションをとっている。すごいことではないか。
そして今やそういったリモートの現状で、恋愛に発展している例もあるようだ。
アバターを介したコミュニケーションで、さらには声まで変えて、「お砂糖」と称した繋がりを楽しんでいるVRの世界があることに、きっと彼ら国民は、違和感しかないことだろう。それが同性同士であればなおのこと。
私もそういうVRの状況を楽しんでいる一人なので、決して批難するつもりはないのだけれど、きっと世間の目はそうだろうなぁっていう話です。

しかし、このコミュニケーションの深さ具合で、4と5という順番を決めつけること自体が間違い、という見方も出来、VRはネットで、Zoomなどのリモートはむしろリアル、という考えもあるだろうし、なにも4や5だけに絞ってコミュニケーションを限定せずとも、様々な方法を、時と場所、シーン別に使い分ければよいのでは、という柔軟な考えも出来る。
あらゆるツール、方法を、うまく使いこなせるのであればそれでよいのだけど、しかし、よく考えてみれば、方法は5だけで十分ではないだろうか。
1~4は、娯楽、エンターテイメント性を併せれば有用だけど、では、人と人とのコミュニケーションに必要なことは、5ですべて事足りているように思うし、そのほうがトラブルも起きにくいのではないだろうか。
現に、面と向かって話すことが主な、偉大なるシニア層が、社会をこれまで築き上げてきたという実績があるのだから。

では、1~5、それぞれのコミュニケーションの方法を、どう使っていけばいいのか。
おそらく、ここに答えが無いのだと思う。投げやりに言ってしまえば、「うまく使えばいい」ということになってしまうような気がしている。そして、うまく使えないのであれば、やはり、面と向かって話すべきなのかもしれない。もちろんこれは、VRではない。

冒頭では「わからない」と書いたけれど、こうして考えをまとめているうちに、少しだけ、自分がこうして思考することで、どんな結果を求めているのかが見えてきた。
多分、もしかしたら、やっぱり、人間的でありたい、と思っているのかもしれない。
かといって、じゃぁ生身の姿を出してみんなとコミュニケーションをするのかといえば、そうではないのだけどw
だからこそ、見えてきたけれど、答えが見つからない。そういう状況なのかもしれないね。

読み込み中...
読み込み中...